2006年2月2日(木)・3日(金)
シンガポールでトランジット泊
それまでの人生で自分史上最高に思い切ったことをした瞬間だった。
千葉交通のバスだった。
ドキドキしながらチェックイン。
以前はスマホなんて当然なかったから・・・10分100円でも使っていたなぁ。
お、これは昔作っていたウェブサイト(笑)。HTMLやらCSSやら、チクチク楽しく自作していました。
ノースウエスト航空、この時は燃油も込みで往復3万円だったんですよ・・・。
あの時のワクワクが今も蘇る。
この時IFEにあった「Bejeweled」というゲームの音楽にハマってしまって、今も時々YouTubeで聴く。
プレッツェル。
シンガポール。タイガーでフライング。
機内食。
チャンギ到着。
写真の2人は私の席と同じ列の人たちで、意気投合していた。
そうか、春節の時期だったんだな・・・。
トランジットホテルを予約していた。初めての一人旅、深夜に街に出るなんて当時は考えられなかった。英語にも自信がないし・・・。
あれから7年後、そこにはシンガポールで元気に働く私の姿が!なんなら朝帰りも!なんて・・・そんな人生誰が想像したろう。
今もあるんだろうかあのトランジットホテル
やたら広い部屋で怖いくらいだったな。
窓の外にはナイトステイ機が翼を休めていた。
朝のシンガポール
さて、すっかり忘れてしまったがトランジットホテルは制限区域内だったんだろうか?そうだったんだろうな。確か当時、預け入れ荷物があると入国しなきゃいけないからトランジットホテルは使えないという注意書きをネットで見た気がする。
チャンギは当時から無料でネットができた。今でもそれなりに有用だと思う。携帯のバッテリーだって惜しいし。
シャトルでMRT駅へ移動。
切符を買うのもドキドキでしたよ。
そうこれこれ。今はもう紙に変わっちゃいましたね。
初MRT、こんなプラスチックのシートにも感動していた。
タナメラで乗り換えを終える頃にはすっかり朝になっていた。
MRTをブギス駅で下車、朝まだ早いアラブストリート界隈をおっかなびっくりクイーンストリートへ。
星柔快車 JB Express乗車。
この切符も多分今はSGD2.50(じゃなかったっけ?)。
クイーンストリートターミナルを出発。
緊張していたのか乗車中の写真はない。ウッドランズで下車。
再び同じバスに乗る場所を越えて・・・
コーズウェイの方へ歩いて行った。
徒歩でコーズウェイ越え
この時はまだ歩けたんですよ。
トンネルを抜けるとそこはコーズウェイ。
シンガポール側。
初一人旅で緊張していたけれど、本当にこの時歩いて良かった。その後ここは徒歩越境禁止になってしまったから。
向こうをマレー鉄道が走っていく。いつか乗りたいとこの時思ったなぁ・・・それから何回も乗っちゃったもんだ。
キャスターもついていたバックパックをゴロゴロ転がして、徐々にウッドランズが遠くなる。
JBが見えている。
ジョホール水道。
JBがだいぶ近くなる。
ここで国境の小さな小屋を越えた。その時小屋の脇にバイクの人が休んでいて(?)、なんだか気が引けて写真を撮れなかった。それまでも通り掛かったバイクや車にクラクションを鳴らされたりしてすっかり萎縮していた(笑)。
少し過ぎてから振り向いて写真を撮った。これが国境の小屋です。
コーズウェイは橋ではなく堰堤だ。
さあ、JB。このイミグレも今はもうない。
シンガポールがあんなに遠くなってしまった。
イミグレでマレーシア入国。当時からJBは怖い街だとガイドブックから頭に叩き込まれていたのでカメラも向けずそのまますぐにまた赤いJBエクスプレスに乗って、ラーキンバスターミナルを目指す。
まさか数年後に、ミラーレス一眼をぶら提げながらJBの街を撮り歩く日が来るとは・・・。(でも私の友達の彼氏くんがJBで通り魔に角材で殴られたりしてますからそれなりに注意はして下さい。)
やっぱりショップハウスは撮るんだな。
15分ほどでラーキンバスターミナル到着。
高速バスでバトゥパハへ
いろんなお店が入っていて緊張したけれどワクワクした。
バスターミナルでまず最初に寄ったのがDiGiのショップ。
当時の私はSIMカードという概念を理解するのは確かちょっと大変だった気がする。でも我ながら用意周到だと思うのが、海外用GSM携帯を手に入れていたこと。
このGSM携帯はその後永らく私の旅の相棒となった。
あ、そういえばバスのチケットも買えたんだな・・・今日の目的地はバトゥパハBatu Pahat。当時最も訪れたかった場所だ。
この時乗客は私ともう一人マレー系のおばさんのみ。話し掛けてくれたけれどマレー語だったことが私にとっては超衝撃だった。当たり前なんだけれど。でもそれまでのマレーシアは主にKLで、英語だけで十分だったから・・・これが「初めての一人旅」というものなんだなぁ(しみじみ)。
もうね、車窓の何もかもが愛おしいというか。モスクも、ヤシのプランテーションも、行き先標識も、イオンカードの看板も。
どのくらい乗ったのかなぁ、1時間半か2時間くらいかなぁ。(その後も何度か行ったのにまったく覚えない。)
バスはアイルヒタムAir Hitamでハイウェイを降りた。
街は街で楽しいのだ。
SHARPの工場があったことに酷く感動した。こんな、全然メジャーではない(と当時は思っていた)街に・・・。ちなみにバトゥパハの手前、スリガデンとかその辺だったと思う。
この近くには富士通もあった。
初めて見た、赤新月の救急車。
街に近づいているのがわかる。
青が好きな私は一瞬見えたこのモスクにはっとした。数年後間近で見た時は感動したなぁ・・・。
2013年にこのモスクへ行った。Masjid Jamek Sultan Ismailという。
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もうバトゥパハ旧市街、この先左折してしばらく走ればバスターミナル。
憧れのバトゥパハ
バスターミナル近くのガーデンホテル Garden Hotel Batu Pahatに部屋を確保した。
窓から見る風景に息を飲んだ。
馬来半島ジョホール州、バトパハ(Batu Pahat 峇株吧轄)へ。正午、シンガポールをバスで出発し、ジョホール・バルを経て、午後五時ちかく、灼けた丘陵を幾跳躍、水ちかい空の放たれたにぎやかさのなかに、あがってゆくしゃぼん玉のようなバトパハの街をのぞむ。
マレー蘭印紀行 (中公文庫)
この街に来たかったのはひとえに金子光晴の「マレー蘭印紀行」や「西ひがし」の舞台を見たかったから。しかもこの街は当時の面影をふんだんに残しているから堪らない。
ちょっと鐘楼が見えている。金子光晴が滞在した旧日本人クラブのあった建物。一休みしたらあそこまで行こう。
バスターミナル。今は手前の黄色い建物は色が変わった。
街の向こうは森。海まではまだ距離がある。
ところで、ホテルは古くボロかった。
でもこの風景は嬉しい。
年季の入った廊下。
またまた中略、ホテルから歩くこと10分ほどで旧日本人クラブのあった川沿いの建物に来た。当時はまだ道端でバシバシ写真を撮るなんてことは(心配性で)できなかった。
バトゥパハは時間が止まったような街だ。だから何度も訪れたくなる。
向かいは金子光晴が食事をした「岩泉茶室」のあった場所らしい。
バトゥパハ川沿いのホーカーに恐る恐る入った。
そして恐る恐る食事をした。
水分を摂ってどれだけほっとしたことか。
やたらシンプルなチキンライス。でも確かRM3とかそんなんだった。
ホーカーのすぐ裏のバトゥパハ川。
街のつきあたりに、満水のバトパハ河のうちひらけるのをながめたとき、私は、しおやまみずのいりまじった水のなかに、頭からずんぶりとつけられたような気がした。そのバトパハ河にそい、ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に私は、旅装をとき、しばらく逗留することになった。
マレー蘭印紀行 (中公文庫)
街が基本的に往時のままであろうことは容易に想像がついた。
バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々でつゞいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹きぬけてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている。
マレー蘭印紀行 (中公文庫)
ホテルに戻った。ロビー片隅の土地神様に惹かれた。
部屋に戻った。緊張もしていたし、暑い中歩いて少し疲れていたと思う。
でも部屋の窓から街を眺めるのは好きだ。緊張を解いてぼーっとしていられるから。
しばらくすると天気雨になった。
南郊バナン山から、こらえ情のない驟雨(スコール)がおりてくると、かわいていたものは息をつき、クラブの水浴(マンデ)場の石の窓ぶちにのせた鉢植の蘭や紅芋の葉はたちまち濡色を増す。
マレー蘭印紀行 (中公文庫)
干したままの洗濯物。
雨も止んだ夕方、また外へ出た。
ホテル隣のヒンドゥー寺院。
向かいは廃映画館。
次に訪れた時は生活雑貨屋になっていた。
自信がなかったんだなぁ・・・でも、頑張ってたなあ自分!
こんな自分にまさか数年後海外で働く未来があろうとは・・・。
明日のマラッカ行きのチケットを無事購入できた。
そのままターミナルの先へ行き、環球(The Store)のCDショップで大好きな歌姫のCDやVCDを買った。
開封して試聴させてくれる(させられる)のが結構衝撃だった。
また部屋に戻っている。この頃は出ては引っ込み出ては引っ込み・・・。
でも、空の色にすら感動していたお年頃。
バトゥパハの街に夜がやってくる。
ホテル近くのMK(Makanan Kampung)というカジュアルなレストランに入った。
次行った時はもうなかったな・・・。
ミーゴレンを食べた。
一食一食クリアすることすら自分にとっては大イベントで、食事に成功すると経験値を一つゲットしたような誇らしい気持ちになっていたものだった。
夜もまた街を眺めて、「マレー蘭印紀行」を読んで寝た(はず。持ってきていたはず)。
山川の寂寥がバトパハぐらいふかく骨身に喰入るところはなかった。 夜のふけるに従って、冷気がしのびよってきた。
マレー蘭印紀行 (中公文庫)
■Flight:NW5 NRT-SIN
■Stay:Ambassador Transit Hotel / ガーデンホテル Garden Hotel Batu Pahat
■Books
詩人の脳と心のフィルターを通して見る約100年前のマレー半島南部とシンガポールは、その鮮やかな色彩や湿った空気が伝わってくるようです。バトゥパハを訪れれば、金子光晴が見た街が今でもそこに残っていることを知ることができるでしょう。
(2016.06.05作成)
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