あの日、海の向こうで

1日分を1ページに押し込む旅日記。画像大量。

2013年9月22日(日)バトゥパハに癒される

バトゥパハに朝が来た。

申し訳程度のアメニティは以前と変わらないけれど。

壊れたカランを直す気はもうないらしい。

ロビー脇のカフェでナシルマブッフェの朝食。

バトゥパハは時間が止まったような街だ・・・。

戦前、鉱山と水運で栄えた当時の面影が残っている。

バトパハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由緒もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々でつゞいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹きぬけてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている。
マレー蘭印紀行 (中公文庫)

かつて新開の街だったバトゥパハは止まった時の中で当時の姿をそのまま留めているように感じられて心が安らぐのを覚える。

【2023.03.10追記】ゴム・錫・水運の栄えた時代は終わり、南北を走る高速道路からも遠いこの町はマレーシアの目覚ましい発達からは取り残された形になったことで、この光景が残されることに繋がったわけだ。

金子光晴がそうしたように、私もカキリマをそぞろ歩く。

美味しそうだな、空腹なら絶対に入った。

もう使われていなそうだった屋台。

モノトーン機能で。きっと往時と変わらない。

【2020.07.18追記】この時間色の壁は多分現在はだいぶカラフルに塗り替えられている。

 

朝はまだ静まり返っているホーカーの中を通ってバトゥパハ川に出た。

この祠も以前来た時と変わらずそこにあった。

誰!?オタオタ落としたの!

先へ進めば、旧日本人クラブのあった建物が。

向かいには、税関。

街のつきあたりに、満水のバトパハ河のうちひらけるのをながめたとき、私は、しおやまみずのいりまじった水のなかに、頭からずんぶりとつけられたような気がした。そのバトパハ河にそい、ムアにわたる渡船場のまえの日本人クラブの三階に私は、旅装をとき、しばらく逗留することになった。
マレー蘭印紀行 (中公文庫)

なおも歩く。

Jl. Enganの朝市Pasar pagi。

飲み物を1杯。

サテ屋さん多し。

カメラ用に火力をあげてくれた。(というか、他のお客さんにそうしろと提案されていた。)

サテ買った。

必ず食べるチェンドル屋、RM1。

サテ、歩き食い。

時間色のショップハウス。

東京があった。

国旗たち。

ホテル脇の交差点まで戻ってきた。

街歩きを楽しみ、チェックアウト。

今更だけど、暖房がないことに気づく。

まずは給油。

これまでバスの車窓から見ていたMasjid Jamek Sultan Ismailへ寄ってみる。

遠目で見るときれいだと思ったけれど近くに来るとちょっと古びていた。

 

お馴染み。

一般道を東へ、アイルヒタムAir Hitamから高速に乗る。

途中渋滞があったので事故かと思ったら、トレーラーが炎上していた。

脇を通ると物凄く熱かった。通行止めにしないのがマレーシアらしい。

まっすぐ帰るのが惜しくて、高速を東のパシルグダン方面へ逸れた。

高速を降り、コタティンギ方面へ一旦は向かったものの、不意に引き返してしまった。

JBへ帰還。ガソリンを満タンにし、車を返した。日曜日は休業日とのことで、鍵は事務所のポストに投函。

Galeriaコタラヤに立ち寄った。

こぎれいなフードコート。

ナシアヤム。

ロティボーイみたいなのを買った。

疲れたので帰国。タンジョンパガーの白靴下猫。

からの、チョンバルの空。

【2020.07.19追記】思い出すのも鬱陶しいことが続くのですが、まぁ2014年当時の記事を今更偽造するのもなあという気もするし、それはそれで自分の責任で辿って来た道だし、とりあえず美しい夕空に罪はないので削除しません。