2006年2月7日(火)・8日(水)
朝、なんとまだ暗いうちにKさんご夫妻が肉骨茶の朝食に連れていってくれた。
ご主人様が子供の頃から、まだこのお店が有名になる前から家族で来ていたという「新峰肉骨茶」。
食べ終わる頃には外は明るくなっていた。
PENSONICは私の大好きな俳優・女優をイメージキャラクターにしたのでそのネーミングセンスに反して私の中では好感度高い。
KLセントラル駅に送ってもらい、お別れした。
知り合ってから数年おきにお会いできている貴重な友達です。
さて、今日はこれで長距離移動。
予約したのはEkspress Sinaran Pagi(=朝の光)5号。
プリントしていたマレー鉄道のEチケットをカウンターに見せたら飲み物のバウチャーが貰えた。バウチャーがなくても一等車はみんな貰えるはずだけど。なお、後から知ったけど別にカウンターに行く必要はなくこれを持ってそのまま乗ればいい。
ホームに通されたのは出発時刻の少し前。
憧れの機関車を慌てて撮影。
一等車は窓にもフィルムが貼ってある。
1:2の座席、予約の時に座席も選ぶことができたため、1人掛けの方を選んだ。
小振りのバックパックが余裕で置けるシートピッチ。
そして列車は出発した。
昨日来たミッドバレーメガモールを通り過ぎる。
車掌さんの検札がある。
アテンダントさんが飲み物を配ってくれる。
カジャンKajang駅。
ドリンクには3in1的なのをお願いした。
マレー鉄道はかつて錫を運ぶための路線だった名残で市街地から遠いところを走っている。
そのため駅も街外れの辺鄙なところにあることが多いようだ。
ヌグリスンビラン州都スレンバンSeremban、電化しているKTMコミューターはここでお別れ。
ここで1時間半ほど。
トイレに入ったら日本の名残を見た。この車両もまた東南アジアのご多分に漏れず第二の人生を送る日本の車両だった。
車窓はただもうのどかで緑。
2時間ほど乗ってタンピンTampin駅、鉄道を使ってマラッカへ行くツアーなんかはここで下車するけどマラッカまではまだここから車で40分くらいかかる。
タンピン駅近くの大きな寺院。
Kさんに昨日「明日列車で食べてね」といただいたMr.Potatoを食べながら、地図で現在地を辿るのが楽しい!
今はもうGoogleマップで追いかけるんだもんなあ・・・ほんの10年前なのに、隔世の感。
この辺から本格的に人里離れた感じ。
Batang Melaka駅。
乗車してから2時間半ほど。
鉄道ファンの間では名の知れたグマスGemas駅はマレー鉄道の東海岸線との分岐点。
この時は見逃したがホームの先の方に蒸気機関車が置かれている。
ハイウェイか跨線橋か。
コピスス色の川は森の色。
カンポンの風景も楽しい。
車内は安全だということが解ってきたので荷物を置いて食堂車へ行ってみる。
連結部分怖い。
まさかのインスタントヌードル。私の記憶が正しければこの時これしかなかったような・・・。
でも列車の中でマギミーを食べたということが嬉しくて、マギミーについてくるプラスチックの小さなフォークを旅の後もしばらく思い出に残しておいたほど。
Labis駅でずいぶん長いこと停車していた。列車行き違いだったかどうか覚えていない。
長い列車に横断を阻まれた下校の子供たちが列車の端まで来て線路を渡っていた。
ジョホール州の中でも大きい方の街の一つクルアンKluang駅。
クルアンで4時間半が経過。
初めての一人旅のこの時は警戒心全開で、こうして安全に外を眺めていられてそのまま移動もできるということは本当に楽しくて、何時間乗っても気にならなかった。
踏切が手動なことにも感動していた。
クライKulai駅で5時間半経過。
この時はわかっていなかったけれど、クライまで来ればもうJB圏。
この造成地もイスカンダル計画の一端だったんだろうか。
あれ、でも2013年に最後に乗った時もわりとここは絶賛造成中だったような・・・。
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Kempas Baru駅はJBの隣の駅。
こうして列車はいきなり都会に滑り込む。
JB駅ではイミグレの審査官が乗り込んできて、その場で出国審査が行われる。
手書きの出国「印」には感激した。
全員の審査が終わり、いよいよコーズウェイだ。
4日前に歩いて渡ったコーズウェイを結構なスピードで通過する。
ジョホール水道、ただいま!
一瞬とらえた。国境ここ!
そして迫りくるウッドランズの要塞。
(今こうして見ると、シンガポールで働いていた時に週末ここに帰ってきて憂鬱になったことを真っ先に思い出しておもしろい・・・。)
ウッドランズのトレインチェックポイントはいわゆるイミグレからはちょっとだけ離れたところにある。
JBと違ってここでは全員荷物を持って一旦下車して入国審査を受けねばならない。
今はもうここで運転終了、全員下車ですね。
全員乗車するまで待つ。
DiGiだった電波がいつの間にかSingTelにローミングしていた。マレーシアとシンガポールのキャリアはいつも互換性があって便利だし、さすがこの両国の関係は深いと思ったものだった。
再び列車は出発。シンガポールの象徴HDB群が見える。
ところが何もないReservoirの森のようなところで列車はしばらく動かなくなってしまった。
車掌さんが何か言いながら歩いていったけれど聴き取れるだけのリスニングスキルはなかった。
暇なので食堂車まで行ってみたけれどもう何もなかった。
車掌さんは何かをじっと見つめていた。
30分ほど遅れて、列車はシンガポール駅(KTMタンジョンパガー駅)に到着した。
列車はすぐに車庫(?)に帰っていった。この時だったかな機関士さんか誰かが手を振ってくれて感激したの。
その後シンガポール国内のマレー鉄道の敷地はシンガポールに返還され、今このタンジョンパガー駅はその役目を終えてしまった。
駅構内のホーカーからもうマレーシアが始まっているような、素敵な駅だったのに。
この時、MRTのタンジョンパガー駅を探すのに苦労したような記憶があるけれど、なんとか見つけたらしい。MRTでブギスへ。
ブギス駅の近くにあったNew 7th Storey Hotel・・・このホテルもダウンタウン線のブギス駅になってしまって今はもうない。
もうこの頃シンガポールの宿泊費は高騰を始めていたと思うけれど、確か5,000円くらいでまともな宿に泊まれる数少ないホテルだった。
でもそれでもバストイレなしの部屋にして節約した。
このホテルの最上階のパテオは本当に居心地が良かった。
ここにはドミもあり、バックパッカーが滞在するにはいい宿だったけれども、シンガポール自体がバックパッカーの財布に優しくない国になってしまった。
共有スペースも充実していた。
古いエレベーターは手動で、アロハを着たおじさんが操作してくれたものだった。
そういえば夜間なんかはどうしていたんだろう?
当時はありがたかったインターネットスペース。
夕暮れ、部屋の窓から。
今気づいたけれどカラフルなローチョーセンターが見える。このローチョーセンターも間もなく消えてしまう・・・。
そして手前はラッフルズホスピタルやん!
夕飯を食べに外へ出た。
これが今は亡きホテルの外観。
宿の1階にもレストランがあったし、裏手にも何かあったようだ。
当時はSEIYUが入っていたブギスジャンクションのフードコートでシンガポールらしくラクサを食べる。
スーパーでお土産や夜食の買い足し。
パテオから少し外を見た。
花火が上がった。
あまり寝られず、朝4時頃チェックアウト。タクシーを呼んでもらう。
当時NW6成田経由ポートランド行きはチャンギの始発かなんかだった気がする。
静かな中を出国。チェックイン前に保安官の個別のインタビューがあったりして、米系エアラインは厳しかったな。
ヘッドレストが折れ曲がることに気づき感動した写真。
さようならチャンギ・・・初めての一人旅はシンガポールに始まりシンガポールに終わった。
深夜の機内食。
夜明け。
着陸前の軽食。
成田へ・・・。
こうして私の一人旅が終わった。これを機に私は年に2回のマレーシア詣でに傾倒していく。まさか数年後にそのまま日本に飛び出すことになるとは思いもせずに・・・。
■Flight:NW6 SIN-NRT
■Stay:New 7th Storey Hotel
(2016.06.08作成)
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